世紀末オカルト学院

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『世紀末オカルト学院』の主人公、元スプーン曲げ少年・内田文明のモデルとなった実在の人物・清田益章氏。清田氏との対面を熱望していた伊藤監督の願いが結実し実現した、緊急スペシャル企画。文明役を演じた水島大宙さんを交え、"本物"のスプーン曲げ少年のリアルな苦悩や真実、そして現在について、当時の思い出話を交えて存分に語っていただいた。

伊藤 『世紀末オカルト学院』は、1999年7月、つまりノストラダムスが世界の破滅を予言した"あの時代"を舞台にした物語です。現実には世界は滅びず今も続いているわけですが、この作品ではその予言が的中してしまいます。それを阻止するため、2012年の未来からやってくるのが、かつてスプーン曲げ少年として一世を風靡した"内田文明"というキャラクターなんです。

清田 じゃあ"正義の味方"なんですね。うれしいな、大体超能力者っていうのは"悪者"にされがちですから(笑)。スティーブン・キングの『キャリー』とか。

伊藤 (笑)でも、大人になった文明は超能力を使えなくなっているんです。何の能力も持たない普通の人間なんですが、1999年にやってきて出会った少女――もう一人の主人公・マヤと共に、世界を守るために戦うことになります。この女のコがまた強くて、文明は尻に敷かれっぱなしなんです(笑)。いや、この設定は別に清田さんのパーソナリティを参考にさせていただいたわけじゃないんですけど…。

清田 いや、その辺りも似てるかもしれない。

水島 そうなんですか!?(笑)

伊藤 この物語のキーである「オカルト」というテーマを考えたときに、一体どういうキャラクターを用意したらいいんだろう、と悩んでいたんです。そんなときにふと、以前に読んだ森達也さんの「職業欄はエスパー」を思い出して。その本が、すごく面白かったんです(超能力者達の日常を描いたドキュメンタリー作品)。かつて超能力者としてマスコミに祭り上げられていた少年たちは、当時どんなことを考えていたんだろう。そして彼らは、今どんな暮らしをしているんだろう。かねてから抱いていた疑問の答えがそこに描かれていたんですね。あと超能力っていうと、アニメの世界だと「雷撃を操る」とか「大爆発を引き起こす」なんて描かれ方をしますけど、そこまで大げさにならずに、特別感を出せるものが欲しかった。そう考えたときに、「スプーン曲げ」に思い当たったんです。時代考証的にはスプーン曲げのブームは1999年よりも古いんですけど、そういうさまざまな要素を参考にさせていただいて、"内田文明"というキャラクターが生まれてきたんです。

清田 オレはもう"生きた化石"だからね。人間よりもシーラカンスに近いという(笑)。

水島 僕が演じた内田文明というキャラクターは、「スプーン曲げ」という特別な才能を持っていたことで、逆に不遇の少年時代を過ごすことになります。清田さんも実際にそういった体験をされたのでしょうか?

清田 かなりありましたね(笑)。最初は楽しかったんですよ。スプーンを曲げるとみんなびっくりして、喜んでくれて。スプーン曲げも自転車の運転みたいなもので、1回覚えちゃえばあとはスムーズにできるようになって。12歳の小学生の頃だったんだけど、次第に自己顕示欲が出てきてね。「これでヒーローになれる!」って思っちゃった。で、TVとかマスコミとか、大人の世界に入っていったんだけど、そこは思っていた世界とは違ってた。ある超能力者のトリックが発覚して以来、超能力に対する世間の認識は一変してしまったんです。街ですれ違う見ず知らずの人から「インチキ」呼ばわりされたりね。本当にインチキなんだったら、そのまま消えちゃえばよかったんだけど、辛かったのはオレの能力はインチキじゃないから、超能力者をやめることができなかったんです。

それからは「自分の能力は偽物じゃない」ということを証明したいという一念でした。大学の研究室やさる機関からの依頼で超能力の実験に参加したりね。筋電図とか脳波計を全身につけられて、カメラ撮影の衆人環視下でスプーンを曲げさせられたり。もうモルモットみたいな扱いでした。

水島 研究対象になっちゃったんですね…。

清田 色んなメディアの方々と会いましたけど、大抵「本当に曲げられるのか?」という疑惑からのスタートなんですよね。

伊藤 常識の檻に閉じ込められた一般人にとっては、当然の反応なのかもしれません。

清田 辛いのはそういう疑いの言葉よりも、そういったマイナスの感情が渦巻く中で「スプーンを曲げなければいけない」ということでした。どんな状況のなかでも、常に答えを出し続けなければ認めてもらえなかったんですから。もう嫌になって、「スプーン曲げやめる」って言ったこともあります。疲れきって心がカラカラだったんです。スプーン曲げに何の喜びも見出せなくなって、自分の能力も信じられなくなってしまった。で、そのうち本当にスプーンを曲げられなくなってきて。そんな状態でも、マスコミはオレにスプーン曲げを強いてくる。そこでオレは、手の力を加えて曲げてしまったことがあった。ある特番でのことだったけど、随分叩かれました(苦笑)。まあ、その後、逆にやる気にもなれた。自分の能力が本物である事を証明するために、メディアに積極的に出ていくようになりました。でも、やっぱりそんな毎日にも疲れてきて、20代の後半にメディアから離れることにしたんです。30代に入ってようやく、それまでの自分自身を振り返ることができるようになりました。12歳からはじめて、30になるまで能力に振り回されて生きてきて。メディアから身を引いて、やっと自分自身と向き合うことができたんです。きっと、人間としてのチューニングがくるってたんですよね。自然のなかに身をおいて静かに暮すうちに、次第に自分を取り戻すことができたんです。心が安定するにつれて、能力も安定してきたみたいです。今でも、スプーンを曲げたいときは曲げるし、曲げたくないときは曲げない。とかいいつつ、頼まれると嫌とは言えない性格なんですけどね(笑)。

水島 清田さんは「スプーン曲げは誰にでもできる」とおっしゃってますが、僕はいまだに曲げられません。曲げるコツみたいなものがあるんでしょうか?

清田 シンプルに言えば、まず「できる!」と思うところから始めないと。これは超能力に限らず何事もそうですけど、そう考えなきゃスタートしないと思うんです。あとは「できるまでやる!」ということ。ほとんどの人は「30分やれば曲げられますよ」といえば30分はやれるんです。でも実際には、その場の雰囲気や本人の集中具合によって掛かる時間は変わってくる。現象は、自分だけの状況ではなく、周りの環境が整って初めて起こるんです。「何分間やれば必ず曲がる」という保証はできないんです。だからそれこそほとんどの人は、スプーンが曲がる前にさじを投げてしまうんです。

水島 うまい(笑)!

清田 オレの場合でいうと、ユリ・ゲラーのスプーン曲げを見たときに「自分もできる」って思ったんです。じゃあやってみよう、ってことになってそこで初めて曲げたんですけど。そのときは、50分かかりましたね。でも、自分のなかで「絶対できる!」って信じていたから50分間やれたんです。要は、そこの違いだけですよね。強い信念――言い換えちゃえば"強い妄想"を持ってないと。文字にすると分かりやすいかもしれない。「念ずる」って、『今』の『心』って書きますよね。『今』について、しっかり理解している人は少ないんです。我々は生まれてから死ぬまで、『今』しか生きていないんです。『過去』は大脳に残された記憶でしかないし、『未来』はこれから訪れるであろう『今』なんです。つまりオレたちは、『永遠の今』を生きているわけです。その『未来』が訪れるまで、何もしないでただ漠然と過ごしているだけなら、『未来』は何も変わらない。それは偶発的に起きる"何か"をただ待っているに過ぎない。「念ずる」ことは、まさに『今』に働きかける行為なんです。「これから訪れる未来をどう変えていきたいか」という意志。「こうしたい!」という強い思いがなければ何も実現なんて出来るはずがない。現状をどう変えていきたいのかを強く繊細に心の内に描く行為が「念ずる」ということなんです。できるだけ具体的に、スプーンが曲がったイメージ、それに対しての周りの反応。よりリアリティのあるイメージを心の中に育てていくんです。そしてその内なる世界が現実の世界と重なったときに、現象は起きるんです。濃い『今』を心の中に作っていく。『今』を凝縮した先に『未来』があるんです。

伊藤 なるほど…。

清田 『今』という時と、『心』というものを正しく追求していくと、その先には現象を起こしうる力がある。表面的な理解じゃダメなんです。その力は、本当は誰にでもある。でも、多くの人は常識がフィルターになってその力が発揮できないだけなんです。それは"常識に縛られてる"ともいえるかな。

水島 「念ずる」ことは、スプーン曲げ以外にも色んなことに応用できそうですね。

清田 よく聞かれるんですよ。「木は曲げられないの?」とか「プラスチックは?」とか。あと「病気は治せないのか?」とかね。曲げるという行為でいえば、ガラス以外のものなら大抵曲げられますね。

伊藤 ガラスが曲げられないのには、何か理由があるんですか?

清田 うち、実家が寿司屋なんですよ。小さい頃から店ん中うろちょろしてて。で、お客さんが、酔っ払って、ガラスのコップを落として割ったりした瞬間をよく見てたんです。そこで、潜在意識に「ガラスは割れる」ってイメージが残っちゃったんでしょうね。もし自分がガラス屋の息子だったら、ガラスも曲げられてたと思いますよ(笑)。

水島 じゃあ僕がスプーンを曲げられないのは、シンプルに考えると「スプーンは固いものだ」って先入観があるからなんですかね?

清田 まず、その固定観念からほぐしていく必要があると思いますね。だから最初は、なるべく「柔らかそうなスプーン」を選ぶといい。それは、オレの場合は許されないんだけど(笑)。

水島 「これならできるかも!」っていうプラスのイメージが必要なんですね。

清田 100均の2本100円のヤツとかでいいんですよ。オススメのやり方は、「2本組のスプーンの1本だけを曲げる」方法。残りの1本には触らない。比較の対象としてそのままにしておくんです。最初は、折ったりぐんにゃり曲げたりしなくていい。少しの変化でも、重ねてみると形が変わっているのがよくわかるんです。このやり方をみんなに教えるんだけど、子どもの方がよく曲げますね。感性が素直だからかもしれない。中には力任せの子もいるけど(笑)。

清田 昔、ラジオ番組の企画でビートたけしさんにスプーン曲げをレクチャーしたことがあるんです。純粋な人でしたね。「清田くん、オレにも曲げられるかな?」っていうから、「できますよ」って。その言葉でやる気になったみたいで、生放送だったんだけど、40分ぐらい延々やってましたね。あまり、しゃべりもせずに(笑)。そしたらそのうち若干スプーンがねじれてきてね。でも、まずすごいのは40分間それを続けられたこと。普通は5分なんですよ。悪い言い方をすると、みんな常識に洗脳されているから、すぐに諦めちゃうんです。でも、たけしさんはオレの「やれますよ」って言葉に素直に乗ってくれた。あとで聞いてみると、やってる最中も「いつ曲がるか楽しみだった」って(笑)。その気持ちが大切なんです。「曲げてやろう!」って意識って、ちょっと違うんですよ。"わだかまり"とか"挑戦的な態度"とか――心が澱んでるんです。そういう状況だと難しいですね。「お、いけるかも!?」みたいな"ノリ"とか、ワクワクするような気持ち。スポーツでもそうですよね。意気込んでガチガチになってるより、リラックスして、いいイメージを自分の中に高めていく方が上手くいく。まず、自分の中にイメージをしっかり築くこと。その先に、現象が起きるんです。

水島 妄想――というか"イマジネーション"というか、僕もよくするんですけど、大体自分の都合のいいように考えちゃうんです(笑)。これも何かの力になったりするんでしょうか?

清田 なります。つまり"イメージする癖"をつけることが大切なんです。さっきの「念ずる」の話の補足になりますが、オレたちの心の働きを言葉で定義すると、大きく5つに分けられます。

「思う」「想う」「願う」「念ずる」、そして「祈る」。

「思う」は、瞬間的に心に浮かんで消えていくもの。「喉が渇いたな」とか「おなかすいたな」みたいな、満たされれば消えてしまう、弱い心の働き。これは、心の中に浮かんでは消える"点"みたいなものです。

「想う」は、「相手」の相に「心」と書きます。つまり対象がいるんですね。「思う」よりも強い気持ち。その心が大きくなると、やがて"恋愛"に育ったりね。これは、自分の心と相手の心が繋がって"線"になります。

「願う」は、「想う」よりも具体的で、濃い気持ち。「こうありたい」という願望ですね。そこに至るための算段とか計画とか、よりイメージが具体的になっていく。でもまだ足りない。まだ頭の中で言葉を中心に考えているだけなんです。これは"面"です。広がってはいるけどまだ完全ではない、2次元的な世界です。ここまでは、多くの人が普段からやっていることなんです。

「念ずる」ことを言葉として理解はしていても、実践にまで至れている人は少ないと思います。ある瞬間、その場の雰囲気や質感、周囲の環境や自分の心の動きまでも詳細にイメージして、自分の内側に完全な「もうひとつの世界」を作る。そうすると、現実の世界が自分の世界にどんどん近づいて来る。それが重なったとき、現象は起きるんです。自分の中に、リアルな世界を作る。これはもう3次元の世界ですよね。スプーン曲げって、ただ「曲がれ、曲がれ…」ってゴシゴシやってるだけじゃないんですよ(笑)。で、ここまでが、これまでのオレの世界だったんです。

最後の一つが、今オレがやり始めていること。「祈る」です。言葉のイメージとしては、神前で手を合わせて頭を垂れて…なんだけど、ちょっと違う。宗教儀式を超えた、もっと本質に迫る「祈る」があるんじゃないかと思って。それがオレの今の"テーマ"ですね。

「念ずる」ことと「祈る」ことの最大の違いは、「念ずる」は個人プレーなんです。個人が心の中に抱いた、強い気持ち。「祈り」は一人じゃない。自分以外の存在と心を合わせるんです。「祈り」は「通じる」、「願い」は「叶う」っていいますよね。その「通じる」存在、大いなる力を自己の内に取り込んで同期していくことが「祈り」なんです。ちょっと話が難しすぎますね(笑)。


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清田 じゃ、そろそろ曲げてみましょうか。

一同 !!!!(驚愕)

⇒第2回に続く